約200年前、ロシア船来襲の報に接し急遽会津藩が利尻島をはじめとする北方の警備を担ったことは知られていない。まだ春浅い4月、はじめての利尻の自然は過酷だった。栄養不足などで多くの犠牲者が出て”会津藩士の墓”として今も島に眠っている。
明治維新後新天地を求めて富山から多くの人々が利尻島に移住し、故郷と同じ名前の新湊を、礼文島を見はるかす地につけた。会津藩士たちの教訓が犠牲を最小限に食い止めたことは想像にに難くない。