5000年前の日本、ヒスイはその新緑にも似た色と最高の硬度で、命の再生を願う祈りに欠かせなかった。沖縄から北は北海道礼文島まで、ほぼ拠点集落にだけヒスイが出土する。複数見つかることはまれだ。数十名から数百名規模の拠点集落であれば当時唯一のヒスイブランドとして全国に流通した新潟糸魚川、富山境の生産加工地に屈強な若者を送り込むことができたのであろう。礼文島で選ばれた複数の若者は、冷たい海を渡りヒグマの生息地を越えて、一千キロほどの旅をした。生還を期すことは難しかったろう。ヒスイ産地の糸魚川長者ヶ原遺跡では完成品のヒスイがひとつも出土していない。命をかけて来訪した若者たちに惜しみなく分け与えたからに違いない。